2008年1月29日火曜日

学習環境としてのブログを考える 1

ブログの目的の変化

当初、このブログは、後で思い出せないときのために、作業内容をメモしておく目的ではじめた。忘れてしまったり、わからなくなったら、検索して情報を探せばよい。 個別情報の集積所のように考えていた。

メモを書き出していると気がつくことがある。後で読んで自分が理解できるような文章にしているのだが、文章化する前の「走り書き」、「簡単な手書きの図」の説明は曖昧な点が多い。サラサラと書いているときは、どこにも整合性に誤りがないように思える。しかし、いざ書き出すとなると、途端に途方にくれることがある。 (@_@;)

4121001362 発想法―創造性開発のために (中公新書 (136))
川喜田 二郎
中央公論社 1967-06

by G-Tools

思い付きを書き散らしたメモや、頭の中にあるから大丈夫だと思っていることを文章にして一連のストリームにしてみる。そうすると、関連した情報を探す必要があったり、派生してアイディアが浮かんだり、考えを進めなくてはならないところが明確になったりする。以前に、KJ法の本を読んだことがあるが、カードの分類と文章化という作業を Web 上で行っているような感じだ。

後で使えるようにと書いているメモの内容は、今のところ基本的な部分をフォローしているに過ぎない。しかし、こういった内容も長いこと使わないでいると、綺麗サッパリ忘れてしまう。 (o_ _)o  書き出すことによって記憶の定着が促進され、忘れたとしても再学習の時間が短かくなることを期待している。 o(^^)o

 

ログから作業場へ

構造を持った動的な知識体系

ブログ - Wikipedia によると、ブログとは、

「WebをLogする」という意味でWeblog(ウェブログ)と名付けられ、それが略されてBlog(ブログ)と呼ばれるようになった。

Log とは「日誌」という意味だ。コンピュータの世界では、機械が付ける一定の書式を持った「記録」という意味で使われる。ログの各エントリーは静的な構造を持っている。しかし、全体としては構造化されていない。 Apache のログも人が解析しなければ、ある特定の構造を持った文字列の集積に過ぎない。アンケートの結果もデータを解釈するための理論がなければ、ただのデータでしかない。「構造化」とは、全体に対する解釈する側の動的な視点のことだ。

さて、このブログはその名の通り、個別情報の倉庫という利用の仕方をしてきた。まさにログである。しかし、メモを書き出している自分という存在は、機械と違って独自の解釈体系を持つ何かである。メモがたまってくると、メモの方から「まとめろ~」という無言のプレッシャーを感じる。 (@_@;) 目の前に表われるものから、何らかの特徴を抽出して認識し、そこにカテゴリーを作ってしまうのが人の性。

タグ付けるという行為は、そういったカテゴリーによって物事を認識する人間の性質に要請された仕組みと言える。ほとんど全てのブログシステムにそのような仕組みが備わっている。従来の紙に書く日記は、「日付」という順序情報しか持たないことが多い。そういった点から見て、ブログとは従来のログという概念ではなく、構造化を志向する仕組みが備わった日記と言える。

人間は、効率的に情報を保持しようとするとき、色々な情報を関係付けたり、不必要なものを削除したり、抽象化することによって、より多くの価値を持つ情報、つまり、適用範囲の広い情報に変換しようとする。より少ない力で大きなものを持ち上げるテコのようなものだ。意味体系を適用しにくい情報を覚えておくことは難しい。ランダムな数字の羅列を記憶することは苦手だ。しかし、人間はそれ以上に複雑なことを覚えておくことができる。知識を構造化することができるからだ。

 

同じことを繰り返さない

一週間前の自分は、既に別人であると感じることがある。自分で書いたメモを読んでも、どういう意図で書いたのかわからないことがしばしば。。。ブログを書いていても、下手をすると、気づかずに同じ内容を繰り返しているかもしれない。 (^^; 記事を書く前に、以前に書いたかどうかを確認するのは面倒。そうすると、ある程度書いた内容を頭の中に入れておく必要がある。

ところで、以下の二つの日記の記述があった場合、そこにどんな意味があるだろうか?

2007.1.1

  • A は B だと思う。

2008.1.1

  • A は B だと思う。

両者は同じことを言っている。内容に関して意味的に等価だ。日付だけが異なっている。日付がどういう意味を持っているのか?それは「1年後、同じことを思った」という情報が表現されているに過ぎない。

では日付をとったらどうか?

  • A は B だと思う。
  • A は B だと思う。

明らかに冗長。

データベース実践講義 の「タプルが禁止される理由」の項において、表の中のデータの重複について次のように述べている箇所がある。

テーブル P には <P1, Screw> 行が3 つあるが、それが 2 つや 4 つや 17 でないことにどのような意味があるのだろうか。きっと何か意味があるはずだ。そうでなければ、そもそも何のためにそこに重複が存在するのか。かつて Codd が言っていたように、「もしそれが本当なら、二度述べたからといって真実味が増すわけではない」のである。 (p51)

4873112753 データベース実践講義―エンジニアのためのリレーショナル理論 (THEORY/IN/PRACTICE)
C.J. デイト Chris J. Date クイープ
オライリージャパン 2006-02

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このブログにおいても、できるだけそのような事態は避けたい。ある事柄に関するメモは一つであり、それが訂正されるとしたら、誤りを改訂するか、訂正を記録し、改変がわかるようにしたい。

「重複」という言葉から、次の言葉を思い出す。

Don't Repeat Yourself (DRY),

これは以下のように解説されている。

also known as Single Point of Truth (SPOT) is a process philosophy aimed at reducing duplication, particularly in computing. The philosophy emphasizes that information should not be duplicated, because duplication increases the difficulty of change, may decrease clarity, and leads to opportunities for inconsistency.

(Don't repeat yourself - Wikipedia, the free encyclopedia より)

重複があると変更が難しくなり、明確さが失われていく。結果として、一貫性がなくなる可能性を孕むということだ。

例えば、ある記事の内容が重複しており、その内容が後で間違いだと気がついたとする。そうすると、重複しているすべての箇所を訂正しなくてはならない。一貫性を保つのにコストがかかってしまう。プログラミングにおいて、重複は最も嫌われるものの一つだ。同じようなものがあれば、まとめる。まとめたものは参照して利用する。メモも同様な方法で管理したい。

 

作業場とは

作業場というのは、状況に応じて刻一刻と変化する「場」だ。過去の集積場ではない。現時点から見て過去のメモは、絶えず修正の可能性を残し、全体として一つの知識を表現するという使い方をしようと思う。

人は、いくつかのことを同時に考えていると、その「広がり」と「方向性」を見失ってしまう。ある一つのことに集中すると、他が見えにくくなる。一度何かを考えると、以前の思考の流れに戻すことは難しい。考えると同時に、自分の知識構造が変化するからだ。それが人間の思考の特徴なのかもしれないが、不便なことに変化は抑制を生む。溝ができると、その場所以外を水が伝わりにくくなってしまう。

ブログというのは、その抑制を意識化させることができる。過去のものを読むことによって、以前の地点に引き戻され、そこからの眺めを得ることができる。ブログを書いて、自分の関心対象のマップを作り、さらにそこからまた別の道を見つけていく。マップは道が作られると変化し、辿っている自分自身もその変化の影響を受ける。

ブログは単なる静的な知識表現ではなく、書き手と知識表現とのインタラクションによって、こちら側 (思考する自分) と表現側 (ブログ) が同時に変化していくような「場」にしたい。

 

結局なに?

前置きが長くなってしまった。 (o_ _)o~† しかも、何が言いたのか自分でもよくわからないことに。。。 ^^; 簡単に言うと、単なるメモの集積所ではなくて、学習の場としてブログを利用したいと、ただそれだけ。そんな欲を出したとき、ブログというシステムの枠において、どのような利用の仕方をすればいいのだろうか。以降、これを次の 3 点から考えてみたい。

  • 学習のためのブログの構造を意味 (概念) レベルから考える
  • Blogger において実際に利用するときの工夫
  • あんなこといいな、できたらいいな

 

続く...

 

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