1. 「誤用」というのが、そもそも言葉の本質からして誤用
言葉の誤用としてよく挙げられる 「煮詰る」 という言葉。
例えば、「これ以上考えても、どうしようもない」という意味のつもりで、次のように言ったとする。
「(プログラムの) コードを書いていたら、煮詰まったので気分転換しよう」
この言葉遣いに全く違和感を感じないし、そのような状況のとき、この言葉が自然と頭に思い浮かぶ。
しかし、Yahoo!辞書 - に‐つま・る【煮詰(ま)る】 によると、
2 討議・検討が十分になされて、結論が出る段階に近づく。
とある。自分が使っている言葉の感覚とは、真逆のことが書かれている。
上記に続けて、次のような解説がある。
◆近頃では、若者に限らず、「煮詰まってしまっていい考えが浮かばない」のように「行き詰まる」の意味で使われることが多くなっている。本来は誤用。2の意は1900年代後半に始まるようである。「行き詰まる」の意は1950年ころの使用例があるが、広まったのは2000年ころからか。
ここで気になるのは「本来は誤用」と書かれている点。「誤った用い方」というからには、「正しい使い方」があることを前提としている。
恐らく上記で用いられている「誤用」という言葉は、次のことを意味しているに過ぎない。
「ある特定の時代における、特定の集団において、多くの人が使っている使い方とは違う」
100年単位のマクロな視点から見れば、日常的な言葉が担っている意味など、吹けば飛ぶような将棋の駒。同じ言葉でも、それが意味するところは変化する。それに対して、「本来」とつけるのはナンセンス極まりない。
ただし、時間的にも空間的にも有限な自分が言葉を使ってコミュニケートできるのは、まさに「ある特定の時代における、特定の集団において」なので、これを「本来」と言いたい心情も分かる。
2. 言語というツ-ルの特徴は、コンテキストによって決まること
サピア の 「言語―ことばの研究序説」 によると、
… 言語要素は何よりもまず、記号である。 … 幾千もの異なる経験を包含し、なおその上に、幾千もの経験を進んで取り入れようとする、思考の便利なカプセルに対する記号なのだ。 (p.29)
言語の本質的な事実は、むしろ、概念を分類し、形式的なパタン化をし、関係づけることにある。(p.42)
「言葉の意味は使用によって定まる」と、昔、友人から聞いたことがある。まさにその通り。
言葉は「製品」のように想定される使われ方があるのではなく、使い方の決まっていないツール。他人が使っているのを見て使用されるコンテクストを覚え、自分が使うときの指針とする。
ツールの使い方を決めるのは自分自身であり、他人によって承認される。
3. 「煮詰る」 と 「煮 + 詰る」 は違う
さて、最初に挙げた例に戻る。
「(プログラムの)コードを書いていたら、煮詰まったので気分転換しよう」
なぜこの言葉使い方が、自分にはしっくりくるのだろう?「本来」誤用であるにもかかわらず。
a. 「行き詰まる」では、しっくりこない
先ほどの辞書の解説に、煮詰まるは 「行き詰まる」 の間違いであると書かれている。しかし、次のように「行き詰まる」を「煮詰まる」で置き換えても、自分にはしっくりこない。
「(プログラムの)コードを書いていたら、行き詰まったので気分転換しよう」
自分がイメージするする「行き詰まる」の意味は、進んでいる先の道が行き止まりで、前に進もうにも壁が阻んでいるというもの。進もうにも進めない場面でしか使わない。行き詰まった先には 「諦め」 が予定されている。「気分転換」など、悠長にしている場合ではない。
これに対して、自分が使う 場合の「煮詰る」 が意味しているものは、必ずしも行き止まりではないし、その後「諦める」 かどうかは状況による。自分が伝えたかった言葉の意味は、
「気分転換したら、別の方法で再チャレンジしてみよう」
ということ。 「行き詰まった」 という言い方より、 「詰り方」 に希望が持てるつもりで言葉を用いている。
b. 自分の「煮詰まる」のイメージの由来
では、なぜそのような言葉のイメージが生まれたのだろうか?
元々、「煮詰まる」とは、「煮えて水分がなくなる」煮物より完成を暗示する。これは自分が使う言葉に対するイメージとは全く異なる。
自分の場合、ここでの「煮る」の意味は、
- 煮る「対象」があり、
- これを調理する
ことを指す。そして、「詰まる」は、「煮る」の意味から独立していて、
「考えに詰まる」
という意味と関連している。
つまり、この言葉を使うとき、
- 煮る対象が「思考」に相当し、
- それらが煮たことにより、形が崩れぐちゃぐちゃになる
というイメージと結びく。よって、
煮る + 詰まる
の二つの語が合成されたものと認識している。決して「煮詰る」の 1 語に由来した意味を意図しているのではない。
表面上は「煮詰る」と同じように見えるけれど、自分のイメージしている言葉は、「本来の意味」と言われる「煮詰る」とは、全然意味合いが違う。
4. 最後に
新しい概念の誕生は、必ず、古い言語材料の多少のこじつけた、または拡張した用法によって予示されている。
(言語―ことばの研究序説, p.35 より)
4コメント:
検索してきました。
> 「コードを書いていたら、煮詰まったので気分転換しよう」
「コードを書いていたら、詰まったので気分転換しよう」
のほうがより簡潔かつ誤用と指摘されることもない。
そんな心配は全然ですよ。
私も違和感を感じない派です。
第一にプログラマーなど頭脳労働でヒートアップすることは肉体労働のそれに比べて煮物っぽいイメージが合っているからだと思います。
第二に「煮詰まった状態」が良いものとは限らないからだと思います。水分を飛ばしすぎるととても食べられない。(若者の間で佃煮などが食べられなくなっていることも遠因か。)第一のイメージを引きずると特にそうなるのだと思います。
そしてそこには、水分補給すれば回復するという希望も込められます。「行き詰まり」だと分かれ道に引き返す分無駄な行為をしなければならないニュアンスがあるのはご指摘の通りでしょう。
『「煮詰まった状態」が良いものとは限らない』と『水分補給すれば回復するという希望』という点が、なるほどと思いました。
人それぞれ、言葉の背後に存在するイメージが異なるというのは、おもしろいですね。
そもそも煮物は好きじゃない。
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