2008年4月12日土曜日

「風の歌を聴け」とニーチェ

何も思いません。

これが小学校のころの読書感想文の内容だった。さすがにこのまま提出することはなかったと思うが、昔は本を読んでも何も思わなかった。

 

活字嫌い

小説は読まない。子どものころから活字が嫌いだった。字を追っても、情景をうまく思い浮かべることができず、内容が頭に入らなかった。だから、読むのは漫画ばかり。絵の補助がなければ、全体の内容を理解できなかった。

国語の時間も嫌いだった。当時、そこそこ素直で従順な (別の言い方をすれば、自分で物を考える習慣がなかった) ぼくは、国語の授業で題材にされていた小説の一部を読んでは、情景描写を頭の中でできるように努力していた。小学校の頃だ。

友だちは何の苦もなくスラスラと読んでいる。後で内容を問うても正確だ。今思うと、その当時、必死に頭の中で浮かべていた光景は、どこか嘘くさい感じのするものだった。登場人物の顔を、知り合いに似た顔として思い浮かべたり、これまで行ったことのある場所の風景に当てはめてみたりと。

 

村上春樹

高校になると、周りの友人はさすがにいろんな小説を読んでいた。みんな大人だなと、内心嫉妬と焦りのようなものを感じていた。本をよく読む人は、自分より成績が悪くても、どこか根本的なところで理解力が上回っていたような気がする。相変わらずぼくは活字はだめだった。なぜ、あのように長い文字の羅列を記憶しておくことができるのだろうかと、不思議に思ったものである。

当時、数学を教えていた先生は、自分が高校時代に「カラマーゾフの兄弟」をよく読んだという話をしていた。それを聞いたぼくは早速その本を買ってみたが、さっぱりだった。まず、登場人物の名前が覚えられず、誰が誰だかわからなくなる。

それでも諦めず、友だちの勧める本を読んでみた。その中の一つに「ノルウェイの森」があった。「変わった感じのする小説だ。」これが最初の印象。言うに及ばず、どんな内容の小説だったかと問われても、全く覚えていない。読んでいた当時も、字を追うので精一杯という感じだった。それでも、最後まで読み切ったときは、「読んでやったぞ!」という妙な満足感があった。そういう風にしか、小説とは関われなかった。

それでも、なぜかその後も、村上春樹の小説は買って読んでいた。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド。これは出だしの印象しか残っていない。読んでいたとき、「これはいったい何のメタファーなのだろうか?」と惨々悩んでいたような気がする。カフカの「変身」にしてもそうだ。全く意味不明な設定についていけなかった。解説を読むと、何かそれらしいことが書かれている。「そういうことなのか」と自分に納得させたが、納得はしてなかった。

 

風の歌を聴け

「この登場人物の気持ちを考えなさい。」という問いは、小学校の頃の国語の授業の定番だ。実にくだらない質問だ。このくだらない習慣に、ぼくはずっと引きずられていた。しかし、結局、こんな枠を設定しなければ、本を読めなかった自分が一番くだらない。

村上春樹の小説に、「風の歌を聴け」というのがある。デビュー作だそうだが、そんなことは何の関心もなく読んだ。昔は、「淡々とした内容の小説だな」としか感じなかった。これほどまでに印象に残らない話があるのかと感心した覚えがある。というか、これが小説として成立するということ自体が驚きだった。

あれから何年か経ち、いくつかの点でいろいろと変わった。自分を取り巻く社会も変わったし、自分自身も変わった。変わったという言葉に、能動的な響きはなく、どちらかと言えば、不可避な流れにいつの間にか飲込まれていたと言った方が正確だろう。そして、ひょんなことから、また、「風の歌を聴け」を読む機会を得た。

以前とは、どこか違う印象を持った。うまく表現できないけれど、描写されている事柄自体の奥にある、複数の「線」のようなものを感じる。その「線」は、以前読んだときには感じとれなかったものだ。その「線」のようなものを、うまくここで表現することができないのがもどかしい。とにかく、自分にとっては「線」のようなイメージが思い浮かんでくる。

語らないことによって、語っている部分が大きい。今回、そんな印象を持ったことも付け加えておく。抽象的な表現で申し訳ないのだが、語彙の少ない自分にはこんな風にしか言えない。

 

読書という行為

クリステヴァバフチンも全く知らない。だから、書かれている意図はよくわからないけれど、ある本の一節にこんな文章があったので引用する。

他者 (他のテクスト、他の時代) と語らい、歴史を含み、またそれに含みこまれるテクストという考えは、さらに別の他者をテクストの場に呼びよせる。あるテクストとそれを読む受け手との対話関係である。読み手はテクストと対話し、その読書行為によって、読書の場に、あらたなテクストをつくりだす。読み手、受け手という他者との関係も、テクストに単一の論理形成をゆるさないもの、テクストを対話論理化し、多声化する契機となる。書かれたもの ecriture と、読む行為 lecture は、声を合わせたり、反発し合ったりして対話しながら、新たなテクストを形成してゆくのである。

(クリステヴァ―ポリロゴス (現代思想の冒険者たち), p69 より。 強調は引用者による。)

 

ニーチェ

さて、上記の小説の登場人物として、デレク・ハートフィールドという人がでてくる。あたかもそのような人物が実在しているかのように小説の中では書かれているが、架空の人物だそうだ。

小説の最後に、ハートフィールドについて、こんな風に記述されている場面がある。

彼の墓碑には遺言に従って、ニーチェの次のような言葉が引用されている。

 

「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」

(p157)

以前は、全く印象に残っていなかった。ニーチェについては、少しだけ読んだことがある。そのため、再びこの本を読んだとき、こんなところでこの言葉が使われていたことに驚いた。これがどこからの引用なのか正確にはわからないけれど、似たような言葉が、「ツァラトゥストラはこう言ったにあったので、忘れないうちにメモっておく。

世界は深い。 --- 昼が考え及ばなかったほどに深い。昼がおとずれる以前に、言葉で語ってはならないことがある。

(日の出前, p36)

 

--- 酔いしれた、真夜中の死のしあわせ。そのしあわせは歌うのだ。この世は深い。昼が考えたよりも深い!

(酔歌, p321)

 

おお、人間よ! しかと聞け!

深い真夜中は何を語るか?

「わたしは眠りに眠り ---,

深い夢から、いま目がさめた。 ---

この世は深い、

『昼』が考えたよりもさらに深い。

この世の嘆きは深い ---

しかし、よろこびは --- 断腸の悲しみよりも深い。

嘆きの声は言う、『終わってくれ!』と。

しかし、すべてのよろこびは永遠を欲してやまぬ --- 、

深い、深い永遠を欲してやまぬ!」

(酔歌, p328より。深夜の鐘の歌, pp.151-153 にも同様の記述がある。)

ちょっと引用されていたものと違う。別のところに、そのものの文章があったかもしれないが、思い出せない。また見かけたときにメモすることにしよう。